現代日本人の神仏観(上) 〜「野球の神様」と「生き仏」〜
(中日新聞・東京新聞 「人生のページ」 平成28年1月12日掲載)
日本人は神社とお寺の双方を訪れ、神と仏に同じように手を合わせている。このように二つの「宗教」の区別を自覚していない日本人は、「宗教」の問題をまじめに考えてはいないのだ。こうした意見に触れることが多い。しかし、本当にその理解は妥当だろうか。
まずは、二つの「宗教」という見方を考えてみよう。実のところ、神と仏をそれぞれ「神道」と「仏教」という別々の「宗教」に関わるものだとみなすようになったのは、明治時代の神仏分離以来のことである。むしろ、わが国ではこの二つの存在を明確に区別せず、いわゆる神仏習合として崇拝するのが伝統的な姿勢であった。現在の私たちも、理屈の上ではこの二つを別々の「宗教」のものだと考えながら、心の中では一体のものとして受け入れているのではないだろうか。
ただし、神と仏をまったく同じものとして捉えているわけでもない。そのことを端的に表しているのが、「神」と「仏」という言葉を現代の人々が無意識的に使い分けている事実である。例えば、野球の上手な人を「野球の神様」と呼んだり、手術の手技に優れた外科医を「神の手をもつ」と評することがある。また、特に優れた技術を「神技」と称したり、一心不乱に集中する様子を「神がかり的」と呼ぶこともある。これらの表現における「神」という言葉は、通常の人が持ち得ない特別な技術や力、あるいはエネルギーの持ち主を表していると言えるだろう。そして、そのような意味で用いられる「神」という言葉を「仏」に置き換えることはできない。
一方、大変優しく慈悲深い人を「仏の誰それ」と称したり、私利私欲から離れた高潔な人を「生き仏」と呼ぶことがある。また、何ごとかを悟り、心穏やかな境地を「仏の境地」と表現することもある。この場合の「仏」という言葉も、やはり「神」に置き換えることはできないのである。
加えて、神と仏のこのような区別は、神社とお寺の祭りや儀式に対する人々の捉え方にも表れている。例えば、神社の祭りと言えば、神輿や山車の巡行の際の、にぎやかでワクワクするイメージを抱く人が多いだろう。あるいは、神社にも静かで厳かな儀式は数多くあるし、お祓いを受ける時の厳粛な気持ちを思い起こす人もいるだろう。だが、いずれにせよ、神社の祭りや儀式は私たちの心をリセットし、新たな活力や生命力を付与してくれるように感じられるものである。
それに対して、お寺の儀式と言えば、一般的には葬儀や年忌法要のように、静かで穏やかなものだと思われている。また、坐禅のイメージともあいまって、お寺は心が落ち着く場所だとか、やすらぎを与える場所だと考えている人も多い。表層的なイメージの比較ではあるけれども、神社とお寺に対する人々の捉え方は、やはり異なっていると言ってよいだろう。
こうした神社やお寺のイメージと、先に論じた「神」や「仏」という言葉の捉え方をもとにして、私たちはここで一つの仮説を立てることができる。すなわち、現代の日本人は、「神」を特別な技術や力、エネルギーの持ち主で、それを人々に分け与える存在だとみなしており、「仏」は欲望をはじめとする様々な力やエネルギーを鎮める存在、あるいは慈悲深い存在だとみなしているという仮説である。無論、神と仏の観念を、それだけのイメージの中に押し込めるのは適切ではない。けれども、現代日本人の一般的な感覚として、そのような区分を行うことができるのではないだろうか。
子供が生まれた時に神社にお参りに行き、そこで健やかな成長を祝う行為は、神から生きる力を授かるためである。一方、誰かが亡くなった時に、たいていの人が仏教式の葬儀を行う背景には、死者の心を仏に鎮めてもらうことが意図されている。つまり、現代の日本人は無意識の中であれ、神と仏に明確な役割分担を期待しているのである。では、そうした役割分担の理由はどこにあるのか。次回はこの点を考えてみることにしたい。